21.03.30 23.03.24 更新

IROFUSI代表&デザイナー・柳澤陽司さんインタビュー【バンタンデザイン研究所】

卒業生
東京校

メンズ・レディスブランド「IROFUSI(イロフシ)」。

2021年2月3日に三越日本橋本店新館4階に初の実店舗、2月23日にJR京都伊勢丹5階に出店を遂げました。

代表兼デザイナーの柳澤陽司さんは、2010年にバンタンデザイン研究所3年制パターン科を卒業したOB。

どのような学生時代を過ごし、どのような過程を経てブランドを築いていったのか、伺いました。

 

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――― ブランドについて教えてください。

イロフシは、『全ての物は自然に由来し退廃し、また自然に帰する。

儚い物が美しいとする日本人古来の情緒的な美意識を追求した物作り』がコンセプトです。

商品は天然素材を使い、墨染めとろうけつ染めを融合した「ろう墨染め」、藍染め後に墨染めを施す「藍墨染め」を施し、

サステナブルな物作りにこだわっています。

 

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――― 学生時代は、どんな学生でしたか?

2年制デザイン科に入り、服作りの基礎を教えてもらいました。

高校生の時、 FASHION NEWSに掲載されているブランドを全部覚え、すごく勉強してからバンタンデザイン研究所に入りました。

そのせいか、パターンも縫製の授業もどこか物足りなく感じ、正直、やる気がない時期もありました。

実は1年のとき、ひとりだけ修了展に出せなかったんです。

 

――― 2年次は?

2年目になって、仲の良かった友達が真面目になったのを機に、心を入れ替えました。

当時、バンタンデザイン研究所OGの鷺森アグリさんが、アトリエでインターンを募集していて。

パターン科20名が全員インターンしている中、自分は唯一のデザイン科でしたが参加させていただきました。

好きなテイストだったので、恵まれた環境に身を置けたと思います。

当時から自分で自分を成長させるため、「環境に身を投じる」ことは強く意識していました。

夏休み1か月間は、朝10時から終電まで働きました。2年生の授業で、パターン科の授業も勝手に出席していました。

2年生の卒展では、グランプリを獲得しました。3年制デザイン科も含めると6位でしたが、自分にとっては大きな出来事で自信がつきました。

当時のスクールスタッフに、「もう1年学んだら?」と提案され、3年制のパターン科に編入しました。

 

――― 2年次卒展は、どのような作品を出したのですか。

メンズのスーツルックです。講師の方に、テーラードの生地で最高級なものは何かと聞くと、

「カシミヤ・ドスキンだ」と教えていただき、40件ほどお店を周りました。

すると、1件だけカシミヤ・ドスキンを置いている生地屋さんがあったんです。

その時にしか置いていなかったそうで、運命的だったと思います。シャツも、綿素材で最高級の「百双(ひゃくそう)」を使いました。

作品のテーマは「しがらみ」で、社会や環境を意味するジャケットに、内側の自分が縛られているイメージで制作しました。

ジャケットの上から紐で作った鎖を巻き付け、心臓を縛るようにあしらいました。

 

――― 3年制に編入して、いかがでしたか?

3年次は、東コレに出ている小規模ブランドでアルバイトとして働いていました。

授業中もサンプル縫製などの仕事に没頭していました。

パターンと縫製を極めようと思ったのは、それができないとブランド運営で人手が必要になるから。

デザインは自分の中から出てきますが、これからの時代、技術がないと生き残れないと考えていました。

授業でも、常に満点を取るように心がけていました。

縫製は、説明書をもらったら、次の授業までに完成品を作って講師に見ていただき、答え合わせする感覚でのぞんでいました。

 

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――― 卒業後、どのような基準で就職しましたか?

大手か、小さいブランドかという二択で考えていました。僕は自分でブランドをしたかったので、小さいブランドを選びました。

大きいブランドにもメリットはありますが、会社が大きいほど仕事は細分化され、幅も狭まります。

大手では「青焼き」といって、ひたすらパターンをコピーする仕事を2年間やるという話を聞き、それは辛いしつまらなさすぎるなと。

また、大手に就職したら大手の中で転職していく以外に道はないと思いました。

すべてを見られる場所で働こうと思い、卒業後は、某ブランドにパタンナーとして入社しました。

 

――― パタンナーとして過ごした3年間は、今に活かされていますか?

そうですね。ここだけの話、給料が安すぎて……(苦笑)。自分が会社をやるとしたら、給料をしっかり出そうと考えました。

デザイナーがデザインしかできないブランドも見ていたので、デザイナーになるにも縫製とパターンの技術が必要という想いは強まりました。

もしも、デザイナーがパターンを引けないと、デザインしたものをパタンナーに渡しパターンが出来て、デザイナーに戻します。

受け取ったデザイナーが「ちょっと違う」とやり取りする……それ自体が時間の無駄だと思いました。結局、仕上がりも妥協しなければならないことも。

デザイナーがパターンを引ければ、思い通りにできますし、仮に想像と違うものを作っても、そこから新しいデザインが生まれたりもします。

 

―――  3年間パタンナーを経験した後に、イギリスに行った理由は?

デザイナーになるうえで、視野を広げないといけないと思いました。洋服は海外からきたものなので、本場を知りたいなと。

単純にヨーロッパを見たかったという理由もあります。バックパッカーでヨーロッパの観光地をすべて周りました。出会いも発見もありました。

当初、どんなブランドにするかは考えていませんでしたが、イギリスのパンクファッションや退廃的なものを良しとする価値観が好きだと気付きました。

それは、もしかすると、日本の侘び寂びの「朽ちていくものを良しとする」価値観に通じるのではないかと思い、日本的なブランドを始めようと思いました。

「侘び寂びって格好いい」というメッセージを、ファッションを通して伝えることを使命とし、ブランドを始めました。

 

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―――  ブランドを持ちたくても、具体的に何から始めたらいいか分からない在校生も多いと思います。どのようにブランドをスタートしましたか?

僕はイギリスにいる間に、直感に従ってファーストコレクションを作りました。

現地で知り合ったモデル、ヘアメイク、フォトグラファーに協力してもらい、撮影しました。

そこで「すごくいい」と褒めてくださった方々がいたおかげで、自信に繋がり、やってみようと気持ちになりました。

そして日本に帰って、1か月で展示会を開きました。ブランドを開くと決めちゃうことは大事ですね。

脳科学でも時間制限があるとやる気がでる、と言われています。ぜひ、直感に従ってください。

あと、大事なのは、コストをかけずにやること。ファッションブランドは1,000万円かけてファッションショーをして資金を回収、

みたいなイメージがあるかもしれないけれど、幻想です。学生はそこを勘違いしている場合も多い。

最初に、売り上げを立てることを考えて。いかにコストをかけず、売り上げを出すか。

クオリティを下げず、コストを下げるか?そういう冷静な視点を持つことが大事です。

 

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―――  ブランドを運営するうえで、譲ってはいけないことは?

コンセプト。伝えたいことは曲げてはいけません。

でも、自分の作りたいものだけではなく、売れるものを作らないといけないジレンマもあると思います。

売れるものというのは、展示会で反応が良かったもの、という意味です。

自分が作りたいものを作るだけでなく、お客さまの声を反映させてデザインを変えていくことは大切で、それは学生とプロの違いかもしれません。

 

―――  ブランドを展開してきて、辛かったことは?

現実的に売り上げを作らないといけないなど、さまざまな葛藤があります。

仲間ができたらできたで、彼らを食べさせていかないといけません。社員のリアルな生活がかかっていますから。

あとは、人間関係です。

僕自身は、頑固な職人タイプです。自分のやりたいことに対して周りが賛成しないこともあります。その葛藤はけっこう辛い。

マネジメントの本を読むと「夢を追いかけると身内に反対される」と、書いてあります。それは、心配しているからなんですよね。

反対を押し切ることと、周りに理解されない時期は辛いです。それでも、結果的には成功させる必要があります。

 

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―――  お店を構えることへの緊張は?

ポップアップショップを6~7年、1年に50回ほどしていました。4か所同時開催などもあり、お店を構えること自体は慣れていました。

経験から、売れ筋と戦い方も見えていたので、どう数字を作り、どのくらいの割合で新作を出すかというイメージも、自分の中ではありました。

ただし、ポップアップと常設とではコストが違うのでその心配と、販売員をどのように確保するかという不安もありました。

京都店には販売員がふたりいますが、公募でいい人材を揃えるのは難しいと思い、Instagramで自らスカウトしました。一度面接をして、採用しています。

 

―――  スカウトする基準は?

服のテイストが近いことが大前提。あとは連絡を取る過程で、性格を見ました。面接を終えたら、販売員を確保することへの不安や重圧は解消されました。

長期的に見たら、ウチの服が好きな方のほうが長く続くんです。それに、販売という仕事は楽しんでやっているとお客さんにも伝わるし、結果的に服も売れます。

 

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―――  ここまでお話を伺うと、とても順調に展開されてきた印象を受けます。

そうかもしれません。知り合いにも「夢を叶えていて、羨しい」と言われるけど、代償はありますし大変なことも多いです。

もし、身近な人が「ブランドをしたい」としたら、失敗しないために、相当シビアにアドバイスします。

企業が生き残るのは10年で6%と言われて、ほとんどの会社は潰れてしまう。

百貨店から求められる販売水準もあるので、日々売り上げを出していけるように今も努力しています。

壁を乗り越えたら、次はもっと大きい壁がやってくると思います。

 

―――  仕事のモチベーションは何でしょうか?

反骨精神。自分の存在を正当化する、という根源的な欲求です。

生きる理由というか、これしかないと思っているからだと思います。

あとは、結婚して子どももいるので養う、というのもひとつのモチベーションです。

 

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―――  「染め」のアイテムがメインですが、技術はどのように確立されましたか?

陶芸で湯飲みなどに見られるひびわれ模様は「貫入(かんにゅう)」と呼ばれます。それを、服で表現できないか?と思い、調べました。

「ろうけつ染め」があると知り、そこから墨に辿り着きました。ウチでは、一般的なろうけつ染めとは異なる方法を採用しています。

製品化して量産するために、短時間でできる方法を独自に編み出しました。

 

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―――  染めを始めたキッカケは?

イギリスから帰国して、高田馬場に住んでいた時期があり、その近所に偶然、染料屋さんがありました。

そこで、ろうけつ染めの道具を揃え、墨染めも詳しい方に教えていただきました。

その後、工夫してオリジナルの手法を編み出していきました。

墨染めも、イメージに合う風合いを出すべく、酢を入れたり、温めたり、豆乳を入れたりして試行錯誤しました。

 

―――  いつから製品化を始めましたか?

ろうけつ染めと墨染めは、2014年6月に行った、2度目のコレクションからです。

そこから7年やっています。続ける中で、「藍墨染め」も生まれました。

ろうけつ染めと墨染めは他にやっているブランドはありません。

人気のアイテムですが、そこに依存しすぎないように、客観的な判断も必要だと感じています。

例えば、LOUIS VUITTONは定番の鞄もあるけれど、アーティストとコラボをしたり、進化し続けていますよね。

根気よく続けないと、浸透しません。

今、ウチはようやくブランドが広まるかもしれないというステージだと思うので、もし自分が染めに飽きたとしても、ブランドとして続ける必要があると考えています。

 

――― 今後、どのようなブランドにしていきたいですか?

日本全国の主要都市にお店を持ちたいし、いずれは海外にも出店したいです。

N.Y、ドイツ、中国、他アジア諸国も考えています。世界中の人に、着ていい気分になれる服を作りたいです。

株式会社KESHIKIとしてのビジョンもお伝えします。

「けしき」という言葉には3つの意味があります。

まず、現代語のいい「景色」、2つめは「気色(けしき)」という古語で、人の気持ち、気分。3つめは、陶芸で「見た目のいいもの」を指していて、それらの意味を込めています。

アパレルのみにこだわっている訳ではなく、将来的にはブランドの世界観に合った家や村を作ったりしてもいい。

KESHIKIの企業理念に沿った事業を展開していきたいです。

 

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